“ワルツ王”ヨハン・シュトラウスが創設した由緒あるオーケストラ!
ウィンナ・ワルツの真髄を伝える独特の節回し。
伝統に裏付けられた優雅で華麗な演奏は、まさに本物だけがなしえる極上の響き!
ヴァイオリンの弓が音楽家にとっては'王の杖'に等しいように、ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団が刻むリズムはウィンナ・ワルツの真髄である。そしてウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団は彼ら自身の由緒ある伝統を重く受け止めている。今日ウィンナ・ワルツは世界中で愛されているが、その本来の醍醐味は本家本元の楽団が演奏してはじめてその真髄に触れることができる。時代を経て、また世界中で愛され続けるウィーン音楽、それは単に楽譜に書かれた音符を演奏すればよいというわけではない。ウィーン音楽の本物の魅力は、ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団のみが継承した伝統によって受け継がれているのである。
'ワルツ王' ヨハン・シュトラウス2世もこの"伝統の伝承"をよく分かっていた。1844年7月31日、彼は音楽監督として43名のオーケストラを編成しようとし、同年10月には時間を惜しまず最上の音楽をつくり出そうとする音楽家達を集めた。そして集まった音楽家達と共に、ヒーツィングのドムマイヤー・カジノで最初のコンサートが開催された。このわずか19歳のシュトラウス2世のこのデビューコンサートは大成功を収めた。ヨハン・シュトラウス管弦楽団の誕生である。
オーストリアの第二の国歌ともいわれる 「美しく青きドナウ」の作曲家であるシュトラウス2世は間もなく、お得意のワルツ、ポルカ、マズルカ、カドリールなどを携えてツアーを行うようになり、耳の肥えた聴衆を楽しませたものであった。やがて評判は日に日に高まり、多忙を極めた彼は全てのコンサートの誘いに応じることができなくなっていった。そこでヨハン・シュトラウス2世はオーガナイザー、指揮者としての素晴らしい手腕を発揮し、オーケストラを一番下の弟エドゥアルトに託したのであった。 1890年と1900~1901年の二度に渡りエドゥアルト・シュトラウスはオーケストラを率いてアメリカへ渡り、嵐のような歓迎を受けてツアーは素晴らしい成功を収めた。オーケストラは大陸をまたにかけ成功を手に入れたのである。
そんなヨハン・シュトラウス管弦楽団も存続の危機に陥った時期があった。その逆境の中、この楽団の指揮者として招かれたのは、ウィーン交響楽団などで活躍していたエドゥアルト1世の孫で'ワルツ王'シュトラウス2世の又甥であるエドワルド2世であった。彼は、ウィーンの一流の音楽家たちによるオーケストラだけがウィーン音楽の魅力を余すことなく演奏できると固く信じていた。1965年エドゥアルト2世のもと、ヨハン・シュトラウス管弦楽団の歴史的編成を継承し、"ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団"と名称を改めた。
1966年、エドゥアルト・シュトラウス2世はこのウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団を率いて、アメリカ、カナダへ渡り、ツアーは大成功を収め、楽団は新たなスタートを切ったのであった。1969年4月6日に彼がこの世を去った後もオーケストラは活躍し続けた。
やがて、ウィーン・フィルの元コンサートマスターで指揮者でもあったウィリー・ボスコフスキーが首席指揮者を引き継ぎ、世界各地へツアーを行い、シュトラウス一族のほぼ全ての作品の録音をオーストリア放送と共に行うなどしてその名をさらに高めていった。その後、楽団は、ウォルター・ゴールドシュミット、クルト・ヴェス、アルフレッド・エシュヴェ、マルティン・ジークハルト、オーラ・ルードゥナーを招き、'ワルツ王'シュトラウス一族が築いたウィンナ・ワルツの伝統を今に受け継いでいる。
今日でもウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団は、色褪せることないウィーン音楽独特の節回し、シュトラウス一族の音楽の真髄を世界中に伝え、多くの聴衆から熱烈な支持を受けている。